心ってなに?

心とは何でしょう?

これって永遠のテーマなんですよね。

不安で眠れないということがあります。これ心の問題で寝られないんだと思いますよね。

でも本当に心の問題なのか?

って疑問に思って欲しいんです。

寝られないということが精神不安と結びつけて考えてないか?

つまり精神不安があるから寝られないのか、寝られないから精神不安になっているのか?

殆どの精神不安って漫然と未来に不安な状態になっている症状じゃないかと思います。

こうしたらどうなるだろうとか、ああなったらどうなるだろうとか?

考えても仕方のないことで不安になっていることってありませんかね。

考えても仕方のないことって考えるだけ無駄ですよね。誰でもわかっていることです。しかし考えてしまう。

この状態って心がそうさせるのか?

他に原因があるのか?

これを考えてみてください。

そうすると突破口が見えてきませんか?

常に疑問を投げかけることです。

不安な状態ってもしかすると考え方の癖かも知れません。

でも心や考え方を変えるのは難しいです。

それなら身体の使い方を変えてみては如何でしょう?

という提案なんです。

不安な状態の人の身体を触るとやはり同じような場所の緊張があったりします。

つまりそれをなくすことが突破口になるかもしれないですよ。という提案なんです。

科学では証明されてないけど、そういう見方をすると身体と心は一緒だと思えてしまいます。

実際、ビックリすれば肩が上がって顏がひきつったりします。

これって運動ですよね。

でもその運動がずっと続くような信号が脳から発せられていたらどうでしょう?

やっぱり不安が続いてしまう訳です。

つまりその形を作りだす信号が脳から出続けることによって起こった身体の状態。

これが長く続く不安の正体だったとしたら?

そう考えた人ってあんまりいないんですよね。

それじゃ~その運動を変えればいいやん!!

私はそう思ってます。

実は癖って弱い刺激で成り立っています。大きな力じゃなく小さな力の連続が身体に癖を起こします。

それが思考につながっていく訳です。

強制力のある強い刺激は癖を治すことはできません。

小さく弱い持続的な力だけげ癖を治す事ができるのです。

最小の刺激は思うだけです。

この発見は凄いことだと思っています。

全てはイメージです。

私が世の中に存在しているというイメージが世界を作っています。

私という存在がなければ世界は存在すらしません。

だから自分が見ているもの全ては自分のイメージしたとおりにしか存在しないんですよね。

信じるに値する存在の積み重ねがその人の世界です。

だから人それぞれで世界観は違っています。

でも一緒にしたいな。

一緒だったらいいな。

っていう思いがその国の法律になったりしている訳です。

だから法律ってかなり曖昧な表現をしたり判断が難しかったりします。

子供の頃って世界がもっと違いましたよね。

大人になって世界が安定してくる訳です。

よく考えれば世界は大人になった私達が考えている程安定しているのか?

存在すると信じているものは本当に確かなのか?

そんな疑問がそこらじゅうにありました。

だから自由だったのかも知れませんよ。

常にこの問いを投げかけ続けることが大事です。

大人になっても子供の時のように世界を見られる。

これって若返りの方法なんじゃないでしょうか?

見た目じゃないですよ。

イメージが若返りを作ります。

見た目のイメージしか気にしないから美容に拘って心の若作りがなくなるんです。

だから変に若作りしている人って余計に老けたように見えたりするんですよね。

固執は年をとったということです。

見た目に固執すると年とってしまうんですよね。

だから身体が硬くなる訳です。

見た目だけ気にしてしまうとなんかな~って思うような雰囲気になります。

ちょっと格好悪いです。

本当の世界はあなたのイメージした世界観だけです。

そしてそれは他の人とは全く違います。

同じには絶対にならない。

あなたの世界観はあなた以外には存在しません。

この意味ってわかりますか?

目の前にペンがあったとします。

そこにあるペンをペンだと認識しているからペンが存在します。

だからペンという概念がないとその物体をペンだとは認識できません。

これと一緒でペンを知っている人とペンを知らない人では違いがあります。

だから知識を得ようと努力するのかもわかりません。

ペンをペンと教えられなければあなたにとってペンはこの世に存在しません。

ペンは記憶の断片でしかありません。

全て記憶なんですよね。

でも最初から記憶がある訳じゃない。

なんか難しいと思うかもわかりませんが存在とはそういうことです。

見たこともないような物体を見たらどうですか?

それを受け入れるのに時間がかかるはずです。

頭の中は  ???????

になるはずです。

この状態は自分の世界の中ではペンは単なる物体でしかありません。

そこでこの物体は何々で何々という作用がある。

と教えられたとします。

そこでやっと安心する訳です。

人はそうやって物事を認識し正しいか正しくないかを判断している訳です。

子供の時ってどこに行っても感動ばかりだったはずです。

だから子供の世界は小さいけど新しいものをそのまま受け入れる発展性があります。

大人はそれを見て我に返るんです。

だから子供は宝なんだと思います。

大人になって常識を叩き込まれてそこから抜け出せない人が子供に教えて貰う。

その必要があるから子供がいるだと思います。

年をとるって当たり前だと思うことが増えることじゃないかと思います。

どうですか?

認知された世界しか認めない人は自分が大人で世の中のことを全て知っている。

みたいに考えている人です。

科学は本来子供の心を持って挑む学問です。

しかし、どうですか?

エビデンスがあるとかないとか・・・。

認知された世界って科学雑誌に載ったか載らないかの違いで正誤を判断しているだけでしょ。

そんなのは生きた世界観じゃない。

死んだ世界観です。

何度も言いますがそれを否定している訳じゃないですよ。

でもそれだけで判断するには世界は大きすぎるっていいたい訳です。

思考は止まってしまっています。

だから勉強したことや人が言ったり行ったことだけを信じる。

これが科学的ということだと思います。

頭かった~い。

新しいものを受け入れる受け皿が少ない。

つまり発見がないので感動が少ない。

開かれていない。

ということだと思います。

たちが悪いのはそれが絶対に正しいとして人にごり押ししてくる人達がいるということです。

感動が少ないのでエネルギーも少ない。

だから臨機応変という考えが少なくなってしまっています。

発表されたものだけが正しいと人にごり押ししてくるのは本来の学問とはかけ離れている思想です。

しかし、十分にその存在を理解せず認識しているものがあります。

霊の存在の有無

という問題があります。

見たことがないと認められない。

そういう自称科学的論者がいたとします。

でも見たこともないのに先祖の供養には行くし、神や仏もお参りにいきます。

この曖昧さが人間という世界観なんです。

科学しか信じていないのに墓参りには行きます。

よくよく考えてください。

墓参りに行く暇があったら日々の生活を精一杯やることじゃないですか?

その中で祖先のことを思い出す方がよっぽど供養になりませんか?

普段の生活を注意深く精一杯やっていればホントの供養になりません?

だって、先祖が今の私を作ってくれたんでしょ。

それは今生きている私が社会に貢献するために世に送り出してくれた訳ですよね。

拝む対象になる為に子孫を残した訳じゃない。

先祖が拝んで欲しいなんて思っているでしょうか?

試しに生きている親が居たら親の前で手を合わせてを拝んでみてください。

気持ち悪

って思われません?

死んだら何故手を合わせる存在になるんですか?

昨日テレビで伊勢志摩の特集をやっていて、海女さんがでていました。

漁ができない天候では神社にお参りに行くということでした。

その一人が「神さんは自分の心に存在する」

こんな自然観を持っているんです。

凄いと思いません?

この海女さんは、神仏のことを専門的に詳しく勉強していたのでしょうか?

つまりその神仏につながっているはずの自分の祖先も心の中にしかないのだと思います。

墓参りに行ってないから悪いことが起きた。

なんて思う人いますが、先祖は子孫に悪さするんですか?

なんでそういう発想になるの?

って思います。

自称科学者の人は迷信やん。

そんなもの!!

ってならないんですか?

科学絶対の人ならそれぐらいの気持ちで見た物しか信じないようにして貰いたいですね。

もちろん神社仏閣になんか行って貰いたくない。

でもそういう人の方が意外に信心深かったりするんですよね。

信心深いというより親に教えられた記憶でそういうことをしている人。

つまり考えもなしに自動的に行動しているんですよね。

災いが起きないようになんて思ってね。

見た物しか信じないんじゃなく覚えたことしか反復してないんじゃないですか?

だから神社仏閣に行くのも誰かに教えられたから行くんですよ。

頭で行っている訳です。

魂の存在なんてどうでも良い。

墓参りも一緒だと思います。

それは知識になっている訳ですね。

それなら供養している訳じゃない。

親から言われて教えられたから行くだけなんじゃないんでしょうか?

そんな人には本当の霊の存在なんてどうでも良い訳です。

知識の反復ですから・・・。

だからそんな人が墓参りに行っても無駄なだけのような気がします。

墓参りや儀式が悪いと言っているんじゃないですよ。

誤解しないでくださいね。

周知した事実しか信じないというのなら霊の存在は周知されたものではありません。

これは事実です。

見たこともないもののことが脅威なので覚えたようにやっているだけなんでしょう。

きっと恐怖から行っている行動なんじゃないですか?

科学的になればなるほどそこに当たり前にある脅威の存在が大きくなってくるんですよね。

それよりこの海女さんのように自分の心に存在する神さんに手を合わせながらお参りに行ってみたらどうですか?

きっと心も洗われ身体が楽になると思いますよ。

そうすればエビデンス、エビデンスとは騒げないはずですが・・・。(^^;

科学的なことが絶対だと信じ込んでいる人は、その世界観が揺らいでいても絶対に認めようとしない。

だから攻撃性が増します。

発言した人の揚げ足をとり知識のないところを攻撃するんです。

インターネットでそういう議論をしている人っていますよね。

知識をひけらかしているみたいで嫌になる。

そして根拠となっているのは人の論文!!

何も自分で調べたことのない人がそういう議論をしています。

とくに、とんでも科学だと言っている人って根拠となっているのは全て他の人の論文ですよ。

実際に自分の目で見て触って実験した結果じゃない。

ああ~いやだ~。

そんな人とは絶対にかかわりたくないって私は思います。

あの重箱の隅をつつくような議論。

嫌です。

不毛です。

わかったような口を利いて全て自分の方が正しいみたいに言っている人ありますね。

信じ込まないで参考にしているという立場が本当の科学的立場なんじゃないかと思います。

何があってもおかしくない。

そう思っている人がホントの科学者なんだと思います。

エビデンス、エビデンスと言っている人は科学者ではありません。

単純に発表された内容を信じて疑わない人の集まりです。

エビデンスは一つの考えですからね。

確率で全てが決まる訳じゃない。

そのことを忘れないで参考にだけする。

それが科学的な態度です。

だからおもしろいんですよ。

世界はね。

では本題に戻してみましょう。

心が曖昧なもので揺らいでいるものだと認識してみてください。

そうすると自分が信じているもの全てが揺らいで見えませんか?

そうなんです。

それが新しい突破口を見出す唯一の方法なんです。

不安で不眠になった。

実はこの突破口は、自分の信じていること全てが実は揺らいでいる。

これを認識しつつ模索することでしか解決する方法はありません。

安定しようとすると不安定になります。

最初から不安定だと思っていたら安定する必要はありません。

自然に安定します。

安定と不安定は表裏一体です。

自分が習慣的に行っていることの全てに疑いを向ければ良いのです。

確かなものはなかったんだと気づくことです。

確かなことがあると信じているから揺らいでくると不安になる訳ですよね。

事実、ストレスから不安で不眠になった人って習慣的にこれは絶対だと信じ込んでいることが少し揺らいだことで症状が起こっている訳です。

だから元から揺らいでいるものなんだと思えれば対処できるということになります。

なんだそうだったのか~。

って思えたらその都度変化することができます。

そうすると習慣が習慣でなくなるということになります。

根本的な見方が変化する訳ですからね。

この世から絶対がなくなります。

絶対がなくなれば不安に思うこと自体も自然なことなので不安に思う必要もなくなるということですね。

いうのは簡単。

でもそれに気づこうとすることは難しい。

気づいてもそれを認知するのはもっと大変。

手なずけるのはとても大変なことです。

でもそれしか方法がなかったらそうしますよね。

その方法がわかるためには習慣が壊れないとできません。

習慣は身体の癖です。

精神的に変化するのは難しいですが、身体の動きを変えるのはできるかもわかりませんよ。

是非やってみてください。

新しい自分の認知がやってくると思います。

そうすれば如何に人間が不安定なものかを知ることができるでしょう。

その時点で科学的なことが最重要になるかどうかを考えてみたら科学的なことの意味がよくわかります。

今の日本は平和です。

でも平和じゃなくなったら全てが揺らぎます。

考え方ももの凄く揺らぐでしょう。

今みたいにノホホンと言ってられませんよね。

話し合えばわかる。

なんて言ってられません。

相手は真剣に攻めてくる訳ですからね。

それに対処できる心を持っていることは安定した世界では必要不可欠です。

安定に慣れないで不安定に慣れる道を選ばないと・・・。

そういう時代になってきているので仕方がないことだろうと思います。

如何でしょう?

全てのことはつながっています。

身体のことは身体だけのことじゃない。

身体と心、世界はつながっているということです。

それを無視し続けて科学的なこと、あなたが認知していることだけが正しい。

なんて思っていると大きな間違いになる訳です。

だから身体の動きを探るというのは世界を探るのと同じなんです。

身体の変化を観察する。

これだけのことがあなたの世界観を大きく変えますよ。

不安定になる。

不安定な状況って安定でないということですよね。

でも自分の世界観は元々安定していないんだと気づけば不安定なことを認めることになります。

何故なら各人で見ているものが違うからです。

人と共有できていると思えるもののは

概ね共有しあっている。

という考えが正しいはずです。

ペンのことを以前書いたと思います。

ペンを一般の人が見たとき書く道具という共通の認識がありますよね。

でもペンを作っている人の認識ってどうでしょう?

如何に書きやすくするのか?とか芯の素材は?

とか全く違う視点でペンを見ているんじゃないかと思います。

ペンを作ったことはないのでそんな人の見方はわかりませんが一般の人とはきっと違う視点で見ているはずです。

これは絶対に共有できない部分ですよね。

ペンはペンであってペン以外のものではないはずです。

それはある程度共有されている知識でしょう。

でもそれは全員が同じじゃないということです。

ペンですらそうですからね。

全ての物は人によって全然見方が違うってことです。

だから人と意見が合わなくて当たり前

というか合わないのが当たり前なんじゃないでしょうか?

合わないものを全て合わそうとすれば衝突します。

合わない場合、お互いの妥協点を探って決着することになりますよね。

そういう意味でも日本人の

和を以て貴しとなす

という考え方って凄いなと思います。

ぶつかり合ってもエネルギーを消費するだけです。

力を使い合ってお互いが駄目になってしまう。

お互いが妥協しあったら自然な形で安定しますからね。

不自然に安定なんかしたらまた必ず不安定になります。

お互いの不安定さを認めあえればきっと世界は安定してくるんじゃないでしょうか?

身体も同じで痛い痛いと痛いことばかりを言っていると痛みと闘ってしまうことになります。

つまりそれはエネルギーを浪費してしまうということです。

妥協しないんですからね。

本当にこの痛みは我慢できない痛みなのか?

それを冷静に見ていくとそうでもなかったりします。

腰痛の場合、痛みだけじゃなく人間の本能に訴えかけるものがあります。

それは、立てなくなったらどうしようという恐怖です。

ギックリ腰をしたことがある人ならわかります。

肩の痛みや首の痛みとは違う恐怖感が身体を支配します。

腰が抜けて立てなくなるということは移動することが当たり前の人間にとって恐怖です。

遠い昔ならきっとそれは死を意味しただろうと思います。

歩いて移動するから生きていくために必要なエネルギーを補給することができたからです。

恐竜は足を怪我して動けないと死ぬしかなかったそうです。

大きな身体を維持していく為には食料にありつけないと駄目ですからね。

現代はそこまで大袈裟じゃないと思いますがその記憶は遺伝的に残されているんじゃないでしょうか?

それほど一瞬で恐怖感が身体全体を支配します。

だから本能的に動かしては駄目という信号が脳を支配するのです。

でもそれは一時的には正しいと私は思います。

少なくとも数時間はあまり動かない方が良いですね。

しかし、数時間したら少しずつ動いた方がいいです。

動かせるところから動かしていくと徐々に動くようになってきます。

でも動かしては駄目という感覚のままにいると痛いのが当たり前になります。

動かないのが当たり前になってしまったら動けなくなります。

これが大事です。

可能性はその人の思考から来るということですね。

動かすためには慎重に少しずつ動かす必要があるということです。

そうするとかなり動けるようになってきます。

激痛を経験すると動かすのが怖い。

でもその痛みの中に入り少しずつ動かすことができる範囲があるはずです。

それは瞑想状態になり治癒が早まります。

そして動けるようになる。

痛くて動けないことを認めることからはじめないと動けるようにはならない。

恐怖に支配されるんじゃなく恐怖の中にどこが恐怖なのかを知ろうとする意識が働く。

これが重要ということです。

職人芸って物理的なもの以外のものを使っています。

職人の手の動きや身体の使い方ってもの凄く綺麗で理に適っていますよね。

力が抜けているんですよ。

ここに職人芸の大きなポイントがあります。

機械に職人の動きを覚え込ませて料理を作るというロボットがありますよね。

素人ではわからないけどあきらかに違う味になるんだろうと思います。

もし味は同じだったとしても実は全然違うものになっているんだと思います。

音楽もCDで聞いた曲とライブに行った曲は同じ曲で同じ演奏者であっても違います。

私達は同じに見えて違うものを感じるんだと思います。

以前ギターの練習のことを書きましたが、力を抜いて弾くと最初うまく弾けないんです。

音もならなかったりします。

でも力を抜いて弾き続けると音がでるようになってきます。

そうすると段々リズムもとれてくる。

リズムがとれてくるとまとまりがでてきます。

上手い人ってありえない程の軽い力で弾いているように見えるんです。

なかなかああいう弾き方にはなれません。

安定させよう安定させようと力んでいる時はなかなかうまくならないのに・・・。

職人さんの動きも同じで力抜けてますからね。

あれをロボットで再現しようにも再現できないですよね。

実はそこに秘密があるんだと思います。

一生懸命安定させようとすると余計に安定しないってことないですか?

不眠も一緒で眠ろうとすればする程寝られない。

それじゃ~起きていよう!!

という発想になると意外にも寝られたりします。

でもその時は寝ないようにしないと駄目です。

つまり不安定の中に入っていく勇気が必要なのかもわかりません。

私達は思っているより安定的に物事をすませようとしているのかもわかりません。

痛みがあったらそれを痛くないようにしよう。

痛くないことだけが神みたいに感じてしまう。

でも治療をしていると痛みが自然にでてくる場合ってあるんですよね。

痛くなるのも一つの治癒過程ということもあります。

そう思っていると痛いけど気持ち良いというポイントがでてくるんです。

こりゃ~不思議な感覚です。

痛いけど動かしたいという衝動にかられたりします。

捻挫の時にあまり体重をかけないようにしているとなかなか治りません。

少しずつかけるようにすると治りが早くなります。

骨折でも同じですね。

無理やりじゃなく徐々に力をかけようとすると血流が改善し自然治癒力が増すんだと思います。

瞑想状態を作り出すということですね。

これが痛くてもリラックスする唯一の方法です。

こういう状態をなるべく作り出せるのが職人芸なのかもわかりません。

やり方は個々で違いがあります。

だから完全な再現性はない。

ある程度はできますよ。でも同じじゃない。

だから科学的じゃ~ない。

でもその人がやると現象はしっかり起こる。

再現性があり科学的なことばかりを追求していると了見が狭くなって最後には追いつめられたりします。

理屈じゃないんだとよく言われます。

できるかできないかは理屈では判断できません。

これが世の中にある不確定な要素です。

物理の世界と同じゆらぎなんですよ。

世界は確定できないもので構成されている。

だから面白いんですよね。

早くそれをわかるかどうかでその後の考えや行動が大きく違ってきますよね。

これってわかっているようで意外にできてない。

これからもそれを追求していきます。

心って何シリーズの最終です。

心と痛みの関係の総括です。

大事なことはどこまでいくと痛みがでるのかを確認しにいく勇気なんじゃないでしょうか?

その気持ちのある人とない人では治癒過程が全然違います。

何回も説明してきましたが痛いということを頭に固定させない。

思考に固定させないことが必要なんです。

だから私は患者さんに刺激をした後、いちいちこの状態での痛みはどうですか?

痛む場所は変わっていませんか?

痛む感じは変わっていませんか?

と聞きます。

ワザワザ聞きます。

そうすることで確認させる訳です。

確認させることは瞑想状態を作り出すことです。

瞑想とは

。英語のMedicineメ デ ィ ス ン(薬、医学)も同種類の言葉です。

さらに英語のHealヒ ー ル(癒す)という言葉は、ギリシャ語のホロス

(全体)に由来し、Healthヘ ル ス(健康)Holyホー リイ(神聖な)もホロスから派生しています。

語源が医学や薬ということですからね。

そのものだと思いませんか?

この状態を作り出せてこそ治療になる訳です。

見た目に同じことをしても同じじゃないんですよね。

患者さんをその世界に誘導できる技術が必要なんです。

そうすると今までになかったことが起こります。

常識では考えられないことが起こる訳です。

世の中にはそういう不確定な因子があってこそ確定的な現象が起こっているんです。

確定的なことだけで世の中は成り立っていません。

それを絶対に忘れてはなりませんよ。

確定は不確定の中でしか起こりません。

だから不確定が大事なんですよ。

わかりえないことが大事。

わかってしまったものは大事じゃないんです。

わかってしまったことだからです。

過去のもので未来のものじゃない。

また不確定が全てでもないんです。

だからどちらも大事なんですよね。

でも人智を越えたものが現象を支えています。

人智を越えたものがない世界はあり得ない。

そんな気持ちで科学をやって欲しいなっていつも思います。

特に医療のエビデンスの扱いはホントに気をつけないとって思います。

エビデンス、エビデンスと言っている人のことをエビ固めと言って揶揄したりします。

それより高いとしてヘルスリテラシーと言って総合的に考える必要がある。

と訴えている人がいます。

それでもエビデンスが元になっていますからね。

ダイナミックに変わるという要素はすくない。

しかし、新しい発見は人智を越えたところにしかありません。

その枠を超えないと新しい発見はないし面白くない。

新しい発見はなくともその可能性があることは否定しないと思うことが大事ってことですね。

遊びを残すってことでしょう。

遊びのないガチガチのハンドルは怖くて仕方がない。

決まり切ったことだけでは面白くなくなるんですよね。

面白くないのにエネルギーって高まるはずない。

痛みを痛みだからと嫌がらずに

どんな感じで痛いのか?

どんな時に痛いのか?

痛む範囲は?

どんな姿勢で痛みがでるのかでないのか?

等々よく観察しているとあきらかに痛みが変わる場所というか痛みが少なくなる状態を知ることができます。

あきらめずに色んなことを考えて動かしてみてください。

それがかなりの運動になることがわかると思います。

御薗治療院

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