目に見えるものと目に見えないもの

身体を観察しようと思った時、身体が曲がっているとか、傾いているというのは、目に見えるものです。しかし、よく観察してみると、目に見えることだけではないということが分かってきます。 


目に見えないものを否定することは簡単ですが、目に見えないことを、実感するということは、それなりの努力が必要なので、その努力をしないと理解することすらできません。 目に見えることだけを見ようとしている人の場合、何年経っても目に見える事しかわかりません。

これが大きな違いです。目に見えることだけで問題が解決するなら、この世の中は非常に単純で無味なものになるでしょう。


目に見えるものしか見ようとしない人は、たとえ、その人がどれほど知力があり、能力が優れていて、感性が豊かであっても、見ることも感じることもできません。能力はなくても、目に見えないものを感じようと意識すると、見えないものが見えてきます。この違いは本当に大きいと思います。


目に見えることしか意識しない人と、目に見えないことを意識する人は互いに批判したりしますが、お互いが自分の世界だけが正しいと主張するから違う世界を認めようとしないだけの話です。

今、何を捉えようとしているかだけの話で、それは能力の差ではありません。目に見えない物を意識している人が特別なのではなく、目に見えないことを意識しようとしているだけの話だということです。 


どれだけ経験を積んでも、見ようとしないものは見えません。感じることすらできません。特別な能力など全く必要ではありません。ただ、それを見ようとして、気づいていくかどうかだけの話しです。 気づいた人だけが、さらに大きな世界を見ることができるというだけの話です。大きな世界を見ようと思えばどこまででも広がる世界を見ることができます。

世界は無限です。追求しようと思えば、どこまででも追求できます。それと同様に、目に見える世界も追求しようと思えば、どこまででも追求できます。そして、それが常に書き換わっているということです。それを止めることは誰もできません。つまり完璧な正解はない訳です。


大きな世界を見ることができるようになり、それを知ってから小さい世界を見ると小さい世界の見え方が大きく変化してきます。そして、その世界の中でとどまることも可能です。どの世界を見ようとしているかだけの差だと気づけば、どちらが上でも下でもないと気づきます。

こんなことを書くと、お化けでも見えるみたいに思うかもわかりませんが、そういう世界の話しをしているのではありません。


身体を観察しようとした時に必要なことは、全体を俯瞰して見ることです。その為には、目に見える世界と目に見えない世界を行き来できる必要があります。どちらだけが良いとか悪いではなく、どちらもコインの両面なので、裏も表も同じコインなのです。

大きな世界は小さな世界とつながり、小さい世界は大きな世界と繋がってます。それを実感できなければ、全体を感じることはできません。そのことにさえ気づけば、批判しあうようなことはなくなっていることに気づくでしょう。


御薗治療院

身体と意識の不思議な現象を体験してください

0コメント

  • 1000 / 1000