基本設計って、その人の生き方や哲学になりますよね。
どうしたいのか?
どうありたいのか?
なにをしたいのか?
これがわかっていないと何も前にすすみません。
それを探すために勉強したりスポーツをしたりする訳ですよね。
学校教育って基本設計を学ぶところと言えなくもありません。
治療も同じでやはり最初は様々なことを覚えて知識をつけます。
しかし知識だけではどうにもならない。
ということを嫌と言うほど知らされます。
知識以外に何が必要なのか?
これを考えるようになってきます。
もちろん知識でわかることはそのとおりにするとある程度の結果がでます。
でもある程度の結果ではだんだん満足しなくなってきます。
おもしろくなくなってくる訳です。
アッと驚くような効果をあげたいと思う訳です。
そこで知識を外します。
時間を短くします。
できることがどんどん限られてきます。
限られた時間内に何をすべきかを必死になって考えます。
そうすると思わぬものが降りてくる。
そうなんです。
降りてくるという感覚で直感が働きます。
それを人に話します。
人に話しているうちに違うものがまた降りてきます。
そしてまた知識をつけます。
そうすると以前読んだはずの知識が全く違って見えてきます。
基本的なことが宝の山のように思えてしまうのです。
ワクワクします。
ワクワクするからまた次の新しい発想が降りてきます。
こんなことをして長年仕事を続けてきました。
そうすると最近思うのですが・・・。
治療ってなんだろう?
私達にできることってそんなに多くない。
ってことに気づきます。
病気になるのもその人の人生、健康になるのもその人の人生です。
必要なときに病気になり、必要になると健康になる。
病気になった時何を考えるのか?
つまり基本設計を思い直すのか?
思い直さないのか?
それによって全く違う人生が待っているように思います。
人間にはスイッチがあります。
そのスイッチを押すか押さないか?
これを決めるのは私じゃない。
患者さん自身です。
このことについて私達医療者はどこまで行っても補助することしかできない。
そう感じてしまいます。
それならその人がスイッチを押すまで待つのも治療です。
何かを感じてもらえるようになるまで待ってスイッチを押してもらえるようにします。
どれだけ勉強して知識をつけても正論を言っても最後は、これができないと駄目なんですよね~。
期待しても駄目です。
ただ待つ。
それしかない。
あきらかに頭でわかるレベルのことを言っている訳じゃない。
その差が治療ができるかできないかなのだと最近つくづく思います。
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