習うのではなく自分から生まれる
以前もこの動画を紹介しましたが、今までのことを思い起こしてみると、人がやっていることを見ることはあっても、一からやり方を教わったことはホントになかったなぁ~って思います。
もちろん、本を読んだりもしましたし、人の意見を参考にすることは沢山あったのですが、基本的にそれは信じられない。と心のどこかで思ってました。
知識は、あった方が良いとは思いますが、知識は活用するものであって真実を言っている訳ではないとも思っていました。見たこともないのにわかるはずないやんってことですね。
幅広い知識はあった方が良いと思いますが、無駄な知識があると自分のやりたい事がブレると思います。そして、意外にもそれが思想的になってしまって、頭ガチガチになってしまうこともあります。
科学妄信者の人ってそういう傾向ありますからね。
どんな知識が必要で、どんな感覚を持てば良いのか?
そのことに集中していないと、迷いが生じ目的を達成できません。
自分で考えていると、やり方を一から教えてもらった人より成長のスピードはかなり遅いです。それは事実ですが、ブレないものが構築されるのも事実です。
軸がブレないと、どんな事案であっても臨機応変に対応することができます。 やっているところを、ひと目見ると何となくできるようになる。それは事実だと思います。
単なる知識は自分が考えたことではありません。そういう知識は、自分を豊かにはしてくれません。活用できる知識こそが自分を豊かにしてくれます。
科学は、様々な人の経験の積み重ねです。それを勉強することは楽しいと感じますし、嫌いではありません。どちらかと言えば好きです。
しかし、あくまでも人が考えたことなので、それが正しいと思い込んでしまうのは、自我を成就させることにはなりません。生きる目的を失ってしまうのではないかなと思っています。
最終的に重要なのは自分自身がどう感じるか?
ということで、優先順位は決まります。美味しくないものは、どれだけ説明されても美味しいとは感じないというのと同じです。 人の考えた知識が正しいと思い込んでしまうと、美味しくないものを美味しいと錯覚してしまうのと同じです。そこに自分は存在しません。
科学的で納得できることは一杯あります。なるほどなぁ~って思うことは一杯あります。
しかし、現場にいないのに、まるで現場にいたように語るのは問題を履き違えています。
一人の人が経験できることなんてホントにしれてます。それをわかっていたら科学者はメチャメチャ謙虚になります。
これが正しいんだから、知らんやつは馬鹿だ!!
と言う思いは、科学者の立場ではありません。あまりにも謙虚さがなさすぎる。
アメリカは、2月末頃、日本でコロナウィルスが何人か出た時に、トイレットペーパーを買いあさるのを見て、あざ笑っていました。
しかし、ひとたび外出禁止になったらどうでしょう。トイレットペーパーだけでなく食材もなくなり、暴漢にそなえた銃まで売れたんです。
これを見て思うことは、その立場にならないと何も現実はわからないということです。
そう思うとコロナに罹ってないのに、コロナのことを云々するのは危険だとわかります。
それはコロナに対する恐怖の裏返しですからね。
自分の目で見て、体験してみないと本当に確かなことは何一つないという姿勢が自分の中から生まれるものを生み出します。
しかし、それを常に注意深く意識していないと、すぐに忘れてしまう。
そんなやり方は、私自身の自我に反する行為だなと思います。
それだけは絶対に避けたい。
自分自身にもそういうおごりがない訳ではありません。
自戒の念を込めて!!
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