新型コロナの感染拡大で大変な騒ぎになっていますが、いくら騒いだところで専門家ではないので、所詮、頭の中で思考するだけにしか過ぎません。昨日の話ではありませんが、実践と理論は大きな違いがあります。理論は現実の前では、単なる妄想でしかありません。
実際の患者さんを目の前にして、何ができるのかを突きつけられ、自分自身も感染のリスクを背負いながら診察されている医師や看護師の皆さんにはホントに頭が下がります。現場にいる訳ですから、どんな理論もそんな人の前では無力です。だからこそ、私達一般人は、今は、まだ決定的なことを言ってはならないと思っています。
それは他の人に余計な混乱を引き起こすだけです。何が起こるかは絶対に誰も予測できません。臨床はイレギュラーとの戦いです。不眠不休で患者さんと立ち向かっている医師の皆さんに敬意を払いながら、早く終息することを祈るばかりです。
こんな状況だからこそ楽しいことを考える。というのも良いですが、折角ですから、自分自身の身体を見つめて、エネルギーを充満する良い機会だと思います。
エネルギーが充満したから感染しないとか、免疫があがるとか言うつもりは全くありません。きっと、そんなこと考えてやれば余計に疲弊するだけです。それは恐怖や怖れ、怒り等々の感情の裏返しであり、余計に増幅されて乱れるだけです。大事なことは、疲弊した身体に注意を向けることで、少しでも、心身を休めることができれば楽になるということです。
マリーナに来て、この文章を書いているのですが、朝から肌寒く、風もやや強くて雨が降っていました。しかし、昼から気持ちよく晴れ、日差しが照り、そよそよとした風になり、小鳥のさえずりと、魚が跳ねる時の水の音が時々します。
それだけでも心が穏やかな気持ちになります。とても意識を集中させやすい環境です。しかし、あくまでもそれは外界の変化であって、内部の変化とは全く無関係です。雑音の中でも身体に注意を向けることはできます。最初はできるだけ雑音のないところを選ぶ方が意識しやすいかもわかりません。
ただ、環境がどれだけ良くても、自分の頭の中が余計な思考で忙しいと、折角の波の音も頭の中でかき消されてしまいます。
そこで自分の呼吸に意識を向けてみます。空気が胸に入ってくる通り道を注意深く観察してみます。胸を球体と考え、どの辺りに空気が入りにくいかを感じてみます。すると、思わぬところに空気が入っていない部分を見つけることができます。
例えば、それが左の胸の前側に感じたら更に深く見つめ、上なのか下なのか、または左側の中心よりなのか外側なのか、できればその形を観察してみます。
観察は、あくまでも観察ですので、それを治そうとしたり、無理やり空気を入れようとしたりしてはいけません。ただただ、そこを見つめるだけです。 ただ、空気が入りにくいところをジッと見つめていると、自然に深い呼吸ができるようになってきます。自然に頭の中の雑音も消えてきます。しかし、それは目的ではありません。自然にそうなります。
深くなったら、またその奧を見つめてください。
よく観察すると肩や首にも力が入っているのがわかります。鼻から入った空気が、胸を通って、お腹や腰、手足に通って行くようなイメージをしてみると手の重たさも右と左で違ったり、腰やお腹にも意識が通りにくい場所があるのに気づくはずです。
何の目的もなく、ただそれをジッと静観してみると、今まで入っていた肩や首、背中の力が自然に落ちてくるのがよくわかります。
自分の体に、ただ注意を向けるというだけで、こんなにも体が傷ついていたのだと改めて思うようになります。 治そうなんて思わず、ただ、その違和感と共に存在してみてください。
恐れることもなく、憂うこともなく、ただ、それと共に在るという感じです。余計なことを考えず、ただ観察するだけです。
だからなにも感じないと思ったら、感じないことを感じていてください。無理に感じる必要はありません。 ただただ、身体に意識を向け続ける。
焦らないで、しばらくの間、ジッとそうしていてください。 身体が楽になろうなんて期待は全く無意味です。 何の苦労もなく、疲れがとれるのがわかるはずです。大事なことは、ただ気づくことです。無駄なエネルギーを使っていたことを理解するだけです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
そんな時間をたった5分もつだけでも、心も体もリフレッシュされ、元気になってきます。何も変えなくて良いので、ただ、そのままの自分を確認するだけです。
どんな神社に参ったところで、心は絶対に落ちつきません。伊勢神宮に行ったところで神さんにアホかって言われるだけです。自分の心が落ち着かなければ身体も硬いままです。
霊験あらたかなパワースポットに行ったところで、そんな自分を変えることはできません。 よくよく自分を観察していると、ホントにエネルギーの無駄遣いをしていただけだと気づくはずです。
そうすると自然に笑いがでてきます。 しかし、その笑いは、ゲラゲラ笑う笑いではなく、心からヒタヒタと沸き上がってくる静かな笑いです。
菩薩がほほえむかのような笑いです。 神仏は必ず自分自身の中だけにいます。外にあるのは、先人達が自分自身の中で見つけたものを表現した抜け殻です。それを求めるのは虚偽だと気づきます。そうなると如何に自分が愚かだったかに気づきます。
そんな時笑わないやつはいない。
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