経絡や穴は特殊な存在であることは事実ですが、特殊なものは身近なところにもあります。
例えば怒っている人の感情そのものを見ることも触ることもできません。しかし、怒っているのはわかります。怒ると肩がいかります。顏が険しい表情になります。 感情を視覚化したものではありませんが、怒っていることを目視することができます。
感情は身体の動きや形を通して表現されるので視覚として捉えることができます。それだけでなく、声もうわずっているので耳でも聞こえます。流石に怒りを臭うことはできませんが・・・。
物とは言い難いですが、かなり物としての性質に近くなっているように思います。
神智学ではアストラル体と言うような表現(正確かどうかはわかりません)をします。
感覚は研ぎ澄まさないと落ちてしまいます。落ちれば感じられなくなってしまいます。
感情は病気という訳ではありません。病気を引き起こす原因にはなるかもわかりませんが、感情自体が病気ではありません。
月に行ったことがないのに、月があると、ほぼ全員が思っています。これは物の定義からすると、かなり怪しいと考えなければなりません。月は感情より物としての存在度は高い訳です。
そう思うと物の定義も曖昧です。
このことからもかなり人はバイアスがかかっていると思えます。
五感は元々不安定で曖昧なものです。また、その人の感覚や思い込みにかなり支配されているというのもわかります。バイアスがかかると言って科学では排除され、邪魔者扱いですが、よく考えればバイアスがかかっていない現象がどれだけ少ないかがわかります。
そして五感を通してしか物を定義することができないとすれば、物とはなにか?
と再度問いたださなければなりません。 感情は物ではないけど物としての断片が色濃い訳です。それなら経絡や穴はないと言い切れるかどうか?
これもないと証明するのは極めて難しいと言えるはずです。
頭で考え過ぎた為に、こんなに身近にある現象をバイアスという言葉だけで完璧に無視できるようになってしまった科学は本当に正しい道を歩んでいるのか?
もちろん、正しいとか正解はないのですが、私のバイアスは、それを疑問視しています。自分のかかっているバイアスを見つめ直し、もう一度素直に現象を見てみる必要があるなぁ~と最近よく思います。
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