「気」は目に見えません。見えませんが、思いが起こっていることは誰しも実感します。ただ、それによって見た目の形に変化はありません。
人が何を考えているかが目の前に可視化されたら、恐ろしい世界になりますよね(笑)
思いも意識できるものと、意識できない無意識があります。問題は無意識の問題です。無意識は、広大に広がる宇宙のようなものです。意識は、そのホンの一部と考えて間違いありません。意識的に自分の身体に思いを巡らせてみることで無意識にアクセスすることができます。 そこで気づくのが行動と思いが連動していないということです。つまり思いが上手く身体に伝わってないところがあるということです。
「気」を理解しようとしたら、まずは、自分の身体の各所を思って行動させてみる過程で何の不具合があるかを見極めていくことです。つまり認知することだと思います。単なる痛みの認知や動きの認知ではなく、もっと深く捉える必要があります。その為にも小さく、ゆっくり、綺麗に動かす必要がある訳です。
推動作用は、この無意識と意識の作用がうまく連動していない場所に起こるのではないかと予測できます。前記したように推動作用の弱りやすい部位は脊椎の周囲にありました。やってみるとよくわかりますが脊椎はなかなか思うように動かせません。そして右と左で片寄りがあるのがわかります。
動かしていると思い込んでいるだけで、必ず代償運動が入り純粋な運動は、ほぼ不可能と言えます。特に胸椎上部は実質的に殆ど動かないので、これを動かすのは至難の業です。代償運動を極力避け、動かそうとすると、動いていると思う意識だけになってしまいます。つまり純粋に動かそうとすればするほど動かせないということです。思いが運動と一緒というのは、このような現象から生まれました。
それなら、動かさない運動というのがありえるし、そこに「気」の推動作用が深く関わっていると考えれば、納得できます。それが証拠に推動作用の弱りやすい場所は胸部です。しかも左右のどちらかで身体の中心部に近いところに多くあらわれます。
思いと動きが連動していないところが胸部を中心に起こりやすいということは、呼吸や循環系と関係のある「気」の低下も起こっていると言えます。つまり宗気の低下でもある訳です。
推動作用は「気」を動かす作用です。推動作用が弱ることで、他の気化作用や固摂作用、温煦作用、栄養作用、防禦作用も全て弱る可能性があると言えます。常に連動している訳です。
折角、分けたものを一つにすると言うのは、論理的ではありませんが、人間の身体は常に全体として動いています。単独では存在しえません。
吐いた唾も元々は、自分の身体の一部だったはずです。しかし、それをまた飲み込むのは嫌だと考えるでしょう。それぐらい全体を一つとして考えているということです。そもそも、こんな風に細分化すること自体が問題があるのですが、細分化したからこそわかるものもあるので、どちらからも考えられるようにしています。
東洋医学と言いながら、全体を考えず、論理に嵌まっていく人を見ていると吐いた唾を飲める人なんだなぁ~と感心します。
0コメント