知識は大事です。
しかし、知識は感覚を超えることは絶対にありません。
昨日の眉毛の体験と同じように感覚の方が強烈すぎて知識が小さく見える瞬間があります。
もちろんその体験を表現するのは知識です。
しかし、どれだけ言葉をつくしてもつくしきれない。
感覚の世界って膨大で言いあらわすことのできない世界だと思います。
鍼灸の治療は感覚が命です。
筋力検査は筋力ではなく感覚が全てです。
正確かどうかなんて議論はホントにくだらない。
押さえて痛い。
動きが悪い。
これって感覚そのものであり、真実です。
感覚そのものは嘘をつきません。
そして、どれだけ科学が発展してもそれを証明することはできません。
なぜなら人によって全く違うからです。
月は他人が見ている月と自分が見ている月は違うってことと同じなんですよね。
だから違いがあって普通です。
違っていて普通です。
間違いのない結果を求めるから間違う訳です。
どう感じるのか?
それに集中し、どう感じるかだけになれば感覚は大きな武器になります。
そういう訓練を昔の人達はやってきた。
だから鍼灸や漢方の古典のような長く読まれる書物ができた訳です。
腹診にしかり、脉診にしかり、望診にしかり
同じ本をこんなに長い時間読まれ続ける書物ってありますか?
そうそうはないですよね。
西洋医学の本って古くなると捨てられます。
新しい事実がどんどんでてきますが、次の瞬間には違う事実がでてきます。
求めれば求める程遠のくというのはこういうことなんじゃないかと思います。
だから量子力学でいう今の結論は筋力検査でみる結果とよく似ているんですよね。
存在するものは私が認識していなくても存在するはず!!
というのが常識的な考えは単なる確率です。
量子力学はそう言っている訳ですよね。
いわゆる最先端の科学が科学そのものを否定している。
そう思えてなりません。
観察者はどこまでいっても観察者です。
自分という観察者と他の観察者は絶対に同じものを認識できません。
違いがあるんじゃないんです。
最初から同じものを認識できないんです。
よく似たものは認識できるでしょう。
でも同じではありません。
科学は限りなく同じに近づけよう。
同じ認識にしようとする訳です。
その努力は正しい。
でも結果的には同じには絶対になりえません。
だから確率なんですよね。
確率はそのものをあらわすことは絶対にできません。
そのものであればいいだけなんですよね。
そこに観察者は存在しない。
そのものです。
わかりますかね?
わからなくてもいいです。
なんとなくわかってもらえればいいと思います。
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