人間は褒められたいだけではなく怒られたい願望ってあるんじゃないかと思ったりします。
偉い先生に怒ってもらいたいとか諭してもらいたいという願望があるのかも・・・。
だから怒ってくれる人を見つけてその人のところに身を寄せようとしたりするのかな~?
きっと新興宗教も同じ構造でしょうね。
未来を予測し、言い切ってくれるような強いリーダーのところに人は集まるわけです。
これは正しいことで、これは正しくないこと!!
と言い切って欲しいんじゃないかと思います。
それを言っている人は自分で感じたものかもわからないので、その人にとっては悪くはないと思いますが、その人の話を聞きに集まっている人の深層心理の中には怒られたい願望があるので言い切ってもらえると嬉しいんだろうなと私は思っています。
しかし、そういう心理を利用して人気を集めたところで、集まってきた人達の本質が変わるでしょうか?
集まってきた人達は納得するようなふりはしますけど、本当の意味で腑に落ちているとは思えません。
結局は自分で考えない人を増やしてるだけのような気もします。
自分で感じて考えるためには、そういう人達から離れないと難しいです。
偉い指導者は自分では考えようとしない人達に一生懸命力説するわけです。
いわば確定ですね。
また叱咤激励しているのかわかりませんが馬鹿だ~とか言われて喜んでいる人もいます。
そこに集まっている人はみんな思っているはずです。
偉い指導者のところに集まっている自分は自分のことを言われているとは思ってないと思います。
こういうのを選民思想っていうんでしょうね。
選ばれし者
と自覚させてもらえるんじゃないかと思います。
人間が変わるときは、衝撃的に変わるのではなく、ゴクゴクゆるやかに変化していきます。
急に変わっているように思うのは、単なるショックを受けただけのことです。
それは一つの道しるべにはなります。
そういう意味でショックを与えてくれる人はいるかもわかりません。
でもそれは単なるショックであって本当のことを悟った訳ではありません。
経験もしていないのに変わるはずないです。
目から鱗が落ちたという表現をしますが、それだけで人間が変わると思っていたら大きな間違いです。
本当の意味で変化してくるとそういう指導者のそばから必ず離れようとします。
自然に離れたくなります。
早くそういう指導者からは離れて自分で感じて考えて欲しいなって思います。
科学も同じで新しい知識を得たり新しい考え方に触れたりするのは一つのショックです。
へぇ~って思いますからね。
しかし、その新しい知識を守ろうとするのは、進化することをやめてしまった状態です。
これは記憶の繰り返しです。
どんなに新しい知識であっても、それを得た瞬間に古い知識になっているということを知らなければなりません。
そこから離れて考え感じるということが必要です。
そのようになってこそはじめて精神が進化したということが言えるのではないでしょうか?
エビデンス信仰者にも同じことが言えると思います。
エビデンスは科学的で正しいと力説します。
どのようにしてエビデンスが作られ、いかに科学的で素晴らしいかを力説されます。
そこで、すご~いって感動したとしても、一切自分で感じて考えたことではありません。
誰かが調べた結果の平均値なので、それが自分にとって必要なことかどうかなんてわかりません。
エビデンスを信じ続けることで自分で感じることを放棄し現実を受け入れなくしてしまったという意味では新興宗教と全く同じ精神構造です。
エビデンスはあくまでもエビデンスです。
平均値でしかありません。
それだけを信じても自分にとって本当に良い情報であるかどうかは全くわかりません。
自分で感じとったことがエビデンスと一致しているのならそのエビデンスは自分にとって有益だと考えられます。
非科学的であったとしても、トンデモ科学とされているものであっても自分で感じたことが一致していれば、それが正しい情報といえます。
感じるというのは理屈ではありません。
感じるというのは信じることではありません。
感じるベースに理屈や記憶があったらそれは感じたというのではなく、記憶の繰り返しです。
感じるのと記憶の繰り返しは全く違います。
記憶の繰り返しや理論は感じることとは全く違います。
感じることは何もないところから起こります。
しょっぱいものはしょっぱいのです。
どんな人でも感じる。
だから思考をすてて感覚に焦点を合わせるんです。
それが感じることです。
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