鏡の前で自分の右手を上げてみると、鏡の中の自分は左手を上げてるように見えるのが普通だと私は思っていました。しかし、これを100人の人に聞くと30%から40%の人は、右手をあげてるという風に答えるそうです。
つまり、鏡の前に写った自分というのは、人によって感じ方が違うということだそうです。
テレビでこの話をやっていたのですが、ソクラテスの時代からこの疑問はあり、未だに答えは出ていないそうです。
これは心理学的にも説明ができない現象なのだそうです。
物の左右というのは、上下と前後が決まって初めて左右が決まります。
鏡の前に柄のないカップをおいて見ると左右がどちらかはわかりません。
上下はあっても前後がないからでしょう。
人の身体を診る時も全く同じで最低限の基準が決まらないと決められないということです。
これは筋力検査の診断でも同じなのですが、何を基準にして診断をするかということによって答えが違ってくるというのは、このような現象とよく似ていると私は思います。
この食べ物は合うとか合わない。
ではなく、何に対しては良い方向に働き、何に対しては悪い方向に働く。
という多面的な部分があるということです。
トータルで考えるとどちらとも言えない。
まさに鏡に写った自分の右手です。
本来医療とはそういうものを含んでいます。
決して竹を割ったように右とか左で割り切れる訳ではありません。
それでもある程度の予測はできます。
しかし、それが本当に良い方向に行くのか悪い方向に行くのかはやってみないとわかりません。
そして、一度決定してしまったら、後戻りはできない。
つまり不可逆的だということです。
ここには時間という軸を含んでいるからです。
薬効のないプラセボ薬でも効果が出たり副作用が出たりするのと同じです。
病気や痛み症状を治したいという単純な願望だけでは、基準が曖昧ではっきりと治療方法を示せない。 何か一つの基準があり、その基準に基づいて治療方向が決まるわけです。
そうすると治さないのも一つの手である可能性もある訳です。
治ってしまっては困ることもある。
そのことに医療者は絶対に気づくべきです。
人間の体を八つに区切る方法があります。
上半身の左前、上半身の左後ろ、上半身の右前、上半身の右後ろ、下半身の右前、下半身の右後ろ、下半身の左前、下半身の左後ろ
という具合に身体を八つに区切って考える。
東洋医学の考え方って意外に数学的なんですよね。
例えば左後ろで肩あたりに問題があれば、バランス的には右前の下半身で調整をするということが考えられます。
体を前後に区切って、前側にあれば、後ろ側で調整し、後ろ側に問題があれば前側で調整するということも考えられます。
また内科的な問題であれば表面で、表面の問題であれば内科的に調整をするということも考えられます。
しかし、鏡の前に映った自分の右手と同じように、人によって感じ方が違う。
前面と後面で区切るのか?
表裏で区切るのか?
前後左右上下で区切るのか?
どの基準で区切れば良いのかというのは、術者の感性に委ねられる訳です。
必ずこうでなければならないというような法則性はありません。
ここが科学的ではない医療の最も重要な特徴です。
つまり主観で結果が大きく違うということですね。
それが人間なんですよ。
科学でガチガチに頭が固まっている人にとっては、どうしても理解が不可能な部分だと思います。
しかし、人間の感性というのは、鏡に映った右手の話と同じように人それぞれによって違うわけです。
それを同一にしようと考えたこと自体が範疇の狭い中だけで決定したフィルターを通してしか物事を見ないようになってしまいます。
つまり科学的にみようみようとすればする程、科学的フィルターを通してしか世界を見ようとしなくなるということですね。
あるものを見ない。
治すのが当たり前と考える医療は、学問的には正しいですが、人間にとっては不用なことであり片寄っている。
ということも言えなくない訳です。
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