殆どの人は、自分が思っていることが真実だと思っています。
私もそうです。
しかし、それは真実とは何かを理解していないのかもわかりません。
人は目の前で起こった事故ですら、10分もすれば正確に再現して思い出すことは不可能です。
カメラを使って撮影していてもカメラの角度によっては違いがありますし、全部を映し出すことは不可能です。
臭いや雰囲気、風の角度の感じ方や光の角度等を再現することは不可能です。
ここに再現性の矛楯がある訳です。
もちろん事故を記録した映像があれば、事故を証明するには十分かもわかりませんが、それは全てではありません。
本当に全て正確かと問われれば難しいでしょう。
できるだけ正確にしようとするのが科学ですが、科学には限界があります。だから科学が絶対正しいかというとそうでもありません。近似値にはなっても真実ではないというのを知っておく必要があります。
過去を再現しようと思ったら誰しも片寄った見え方をしてしまうのは避けられません。
観察者によって振る舞いが違うというのが電子の様子ですからね。この発表にはホントに驚きました。科学が真実に近づいた瞬間なのかなとも思いました。
どれだけ片寄らない見方をしようとしても、やはり片寄ってしまうのが物理現象です。
それなら片寄った見方をしないという見方をやめれば良いのでは?
今は昔より個人の主張をしやすい世の中になり情報が一瞬で流れるようになりました。
また人の感情や感覚もAIによって分析することで、確率的に、かなり正確なものに近い答えを出すことができるようになってきました。
人間が想像もつかないような答えも難無くだしてきてくれます。
それを境にして、ちまたに真実と呼ばれるものが沢山溢れるようになった時代です。科学の発展が喜ばしいと思っている人もいるでしょう。私もそのうちの1人です。
しかし、情報過多によって取捨選択を誤り、正しい情報を得ようとして間違った情報を得てしまうということも多くなりました。
この状態を危惧する人もいますが、混沌とした状態ってそんなに悪い状態だとも思えません。
ちょっと立ち止まって考えなければなりません。
もし、真実しか正しくないと言う人がいたら一切の娯楽は必要なくなります。
テレビもラジオもネットも必要なくなるでしょう。
芸術なんてもってのほかだろうと思います。
主観によってもの凄く評価がわかれる訳ですからね。
本当に売れない作家は面白くないのか?
と問わなければなりません。
テレビもラジオもネットも嘘だらけだと最近よく思います。
テレビで正確な情報を流さなければならない。
正確な情報しか流してはいけないとしたら、世の中は、もの凄く無味なものになってしまうのではないかとも思います。
ならば真実はどこにあるのか?
真実は「今」しかないと思います。
「今」起こり、「今」感じることは真実ですが、過去の出来事や未来の予測というのは、どれだけ正確な情報のように思えても全てに嘘が含まれています。
ちょっと語弊のある言い方であることは否定しませんが、「今」見て感じることが真実だと仮定すると、そこには先入観も何もなくなります。
「今」こんな色のものを見た。「今」こんな臭いがする。「今」こんな感じがする。
これらは過去も未来も感情も思考も一切含まれません。そして科学でも非科学でもありません。
やっぱりこれって真実なんじゃなかなと思います。
希望という未来のある嘘が人間を発展させ、過去の記録がその未来を支えてきたのは事実です。
しかし、現実は「今」しかない。
「今」は過去や未来とは全く無関係です。
そこに気づかないと真実を語ることはできません。
唐辛子を食べて辛いと感じたことは思考を含んでません。
考えたのではなく、ただ辛いと感じたのです。
しかし唐辛子の辛さを伝えようと思った時、思考を使って言葉を使わないと相手には伝えられません。一瞬で過去の出来事になります。そして、そこには主観と考えが含まれます。考えが含まれたものは必ず片寄りがあります。それは真実と言えるでしょうか?
正確にあらわすことはできても、それを再現することは不可能です。
例えどんな方法であったとしても「今」痛みが変化したのなら、その「場」において真実なのです。
それがどれだけ科学的な方法であろうと(過去からの引用)、非科学的な方法であろうと、インチキに見える方法であろうと「今」感じたことは、その「場」においての「今」だけの真実です。
だから再現性もないのが真実だと言えるかもわかりません。
まさに一期一会ですね。
方法論はある程度伝えることはできます。その方法論の成功率をあげることはできても、その「場」」で起こった「今」は再現することはできません。
真実ってホントに「今」の一瞬しかないなぁ~って思います。
逆に嘘が事実だと思っていることを上回る嘘がある訳です。
だからテレビもなくならなければラジオもネットもなくなりません。
芸術もなくなりません。
人はそれを表現したいという欲求が強いからです。
その時に真実に近づこうと思ったら、どう感じるかということだけなのではないかと思います。
それを究極的に突き詰めたのが瞑想かもわかりませんね。
お釈迦さんは、それに気づいたのかも・・・。
なんて妄想をしながら「今」を感じるようにしています。
そう思いながら患者さんと接していると色んなものが見えてくる。
普通では見えないものが見えてくる訳です。
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