客観的でないと絶対駄目だと思っている人は、科学的なマジックに引っかかっているんじゃないかと思います。問題は、客観的でないと絶対に駄目だと思うことです。科学が悪い訳じゃないし、客観的な観察が駄目なのではありません。とても大事な事です。しかし、客観と主観を切り離して考えるからおかしくなる訳です。
化学の実験をするとわかります。
例えばAという主剤に対してBと言う副剤を混ぜてCという化合物を作ろうと思います。
計算上は、20%の化合物ができるとします。しかし、気温や大気の状態や構造的な問題等々で19.9%の時もあれば、20.1%の時もあります。なかなか計算通りにはいきません。
車のエンジンがそのもっとも良い例です。本来持っているガソリンのエネルギーを100%とすると40%ぐらいしかエネルギーに変換されていないと言います。
昔のエンジンなら30%ぐらいだそうです。排気音も熱として捨てられるエネルギーになります。
殆どは熱に変換されてしまうので、かなり効率の悪い機械だとも言えます。
面白いことにエンジンの熱効率が最大となるのはアクセル全開に近い状態だそうです。エンジンパワーと要求されている駆動力が釣り合っている時ですね。
しかし、アクセル全開にして一般道を走る人はいませんよね。また高速道路でもアクセル全開で走り続けるのは不可能です。また、熱効率が良くなれば燃費が良くなるかというと、そうとも限りません。このあたりが非常に悩ましいところです。
車は、長い年月をかけて研究されてきました。しかも人々が、性能の善し悪しを思い続けてきた訳です。だから、人類にとって、これ程までに愛され、注目されてきた機械はないはずです。だから、できるだけ良いものを作ろうとしてきたはずですから、人類が作り出した物の中では最上級のはずです。それでも、まだまだ答えは近似値でしかありません。
理論上の値と実際値は違うということです。しかも、こんなに違う訳です。
特に一般の車は、レースで速く走る為に特化した車ではありません。つまり、専門的ではないということです。一般車は様々な条件をクリアしてこそ車として成り立つ訳です。そう思うと理論値が必ずしも、役立つとは限らないということです。
論理値は計算で出せますが、様々なものに対応できるという理論値は難しいのです。ちょっとした条件で変化するのですからね。
その総合力が一般車に適応されつつ、人に愛される車にならなければならない訳です。もちろんデザインを含めて、乗り心地も全てです。
この話は、人間の身体にも言えることです。スポーツだけできる身体が丈夫な身体かと言えば、そうとは限りません。スポーツでもテニスは上手いけど、サッカーは下手という人もいます。
野球はできても、米を担ぐのは苦手とか、草刈りのような長時間の労働は苦手とか、色んな条件で変わってくる訳です。
人それぞれで身体の使い方は違う訳です。その人の生活環境に沿った条件をクリアするというのは、どこかで妥協することも大事になってきます。そうするとワザと性能を落とさなければならないことも考えなければなりません。
もしかすると、腰の痛みが起こるべくして起こった状態であるなら、完全に調整してしまうと個体を破壊しかねません。また人間には、機械と違う厄介なものを備えています。
それは、自己治癒能力と思考や感情です。
この二つが身体を良くも悪くもするというのは、今までブログで何度も書いてきたことです。
逆に、それを逆手にとって良くすることもできます。
一筋縄ではいかない身体を扱う訳ですから、理論通りにいかないのは普通です。
理論通りに治そうとしても治らないのは当たり前でしょう。
もちろん理論が駄目なのではなく、理論の扱い方が問題だということです。
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