四海の話が続きますが、なぜ四海が面白いのか?
それはあまり古典に記述がないし、四海の臨床をしっかりやっている人は少ないからです。
部分的な反応と、全体的な反応は違います。
部分的に見た四海と、全体的に見た四海というのは違いがあります。この概念もなかなか理解されにくい。今回の場合は重力の関係で足首から四海を見ているので、主訴は関係なく、全体として見ているということが、第一条件です。
四海の反応を出現させられるか、させられないかは、この条件設定で決まってきます。
局所には局所の四海があり、別のシステムです。そのことを理解することが経絡のような目に見えないエネルギーを扱う上でめちゃくちゃ大事です。
例えば足の三里は、常に同じ位置にあると考えるのが普通だと思いますが、実際には、様々な変化をします。 一つの条件の中では、同じ位置にあるかも分かりませんが、条件が二つになると同じ位置にあるとは限りません。このことが問題を複雑にしています。
穴の位置が変位するということは、臨床家なら誰しも分かっていることなのですが、なぜ、その穴が変位したのかは、あまり考えられていません。しかし、そこに大きな問題点があり、逆に鍼灸治療の醍醐味があります。
条件設定ということは、コンピューターで言えばフォーマットの違いや、OSの違いと同じようなものです。例えばMacでは、マウスのボタンが一つしかありませんが、 Windows では、二つあります。 Mac は使ったことがないのでよく分かりませんが、やりたいことが同じであったとしても、操作方法が違います。
必ず足の三里が、同じ位置にあると考えるのは、Windows しか使ったことがない人が、一つのボタンしかないMacのマウスを使いこなせないのと同じです。 穴の位置にこだわりすぎると、本来のものが見えてきません。なぜなら、穴の位置を決めることが目的になっていて、肝心の治すための手法ではなくなってくるからです。
なぜ、この話をしたかと言うと、 四海も十二正経も同じようなところによく似た経路があり、区別がつきにくいからです。そこに隠れている条件をキチンと設定しないと本質が見えてこないということを伝えたいのです。
しかし、鍼灸学校に行くと、ツボの位置を正確にとることを主眼とした教育の仕方をします。それはそれで確率的には正しい方法なのかも分かりませんが、それが絶対に正しいと教えられると、その位置から離れられなくなってしまいます。
これでは本末転倒です。柔軟な余力を残した教育をして欲しいなと思っています。固定的な概念で人を治療できる程、人間の身体は固定的ではありません。
臨床家なら誰しも感じることです。生徒自身が、思考し、模索する為には、固定的な知識は邪魔になることがあります。教育方針だから仕方がないと言えばそれまでですが、できる限り余力を持たせた教育が望ましいと考えます。
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