随意筋は思いによって収縮させたり弛緩させたりすることができますが、皮膚は、意図的に収縮させたり弛緩させたりできません。
つまり、随意筋を動かしている思いと同じような何らかの信号がなければ皮膚が緊張したり弛緩したりしないはずです。東洋医学における内臓と経絡の関係の通り、内臓の思いが皮膚緊張を引き起こすと考えるともの凄く辻褄が合うように思えます。
随意筋のように意図的にハッキリとした緊張や弛緩はないものの、僅かな意思や思いで皮膚が緊張したり弛緩したりしているのではないかという仮説が成り立ちます。脈拍も、その時々で大きく変化しています。運動するだけでなく、ちょっとした精神活動でも結構変化します。
これらの変化を受け、経絡も内臓の思いを表現した経路だということであれば、経絡の理解が更に深まるのではないかと思います。
東洋医学の中には、七情という概念があり、内臓と感情を結びつける概念があります。例えば肺は悲しみと関係していると書かれています。感情は、七つにクッキリわかれる程、単純ではないので、悲しみという感情だけを絞ることは不可能です。
悲しみや怒り憂いというような感情が混ざっていたとしても、そのイメージが影響して、随意運動でない器官の圧力が高まり、見かけ上緊張してくると考えると、辻褄が合います。
もちろん皮膚だけでなく、その緊張は、リンパ、神経、血管であっても僅かな圧力変化が見かけ上の筋緊張を引き起こしていると考えてもおかしくない訳です。
もし、この考えが正しく、大胸筋の緊張が肺と関係し、精神疾患と関係があるとするならば、肺の思い(悲しみ)を解いてあげなければ、緊張はなくならないのではないかと思います。 つまり短絡的に緊張しているところを刺激しても何の解決にもならない。というごく当たり前の結論に到達する訳です。また、その思いを解くのに必要な刺激は、大胸筋にあると考えられますか?
もし単純にそうだと考えているのなら東洋医学をやる必要はありません。きっぱり断言します。そんな刺激しか行えない人は、東洋医学ではありません。
肺の思いを満足させてあげなければならないはずです。このような考え方にのっとって、東洋医学の経絡を理解しようとするなら、経絡がなぜあるのかという意味がわかるのではないかと思います。
そもそも筋肉の緊張でない可能性があるという幅の広い考え方こそが、この問題を解決する糸口だと考えられる訳です。そして、この信号を取り除くことができれば、この見かけ上の緊張はなくなる可能性があるということです。何らかの信号ですから、物理刺激が必要かどうかすら疑わしいと思わなければなりません。
五臓には思いがあります。意思があるということです。制圧ではなく、それを満足させるということが何よりも重要ということだろうと思います。
東洋医学という看板をあげるなら、不完全であってもそういう視野にたって物事を考える必要があるということです。
今の社会情勢も全く同じだと私は思います。短絡的に見えるものしか見ないで、それに拘るのは全体を見れないというか見ようとしていない人と言えます。そのことに早く気づいて前に進んだ人だけが変化を受け入れ進化するのです。逆に言えば、今が最大のチャンスだと言えます。
そのことに早く気づいて欲しいと願わずにはいられません。
つづく
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