小学生の時に近所で習字教室をしていて、近所の小学生の殆どは、そこに行っていました。
私もそこに通っていましたが、その時の先生が何を言ったのかは全く覚えていません。 短い期間だったので習字が上手くなったということもありません。
それでも一つのことだけはよく覚えています。覚えているというより体の感覚で覚えているような感じです。
私の手を取って一緒に書いてくれた時のことを鮮明に覚えています。その時の情景を思い出すと、その先生に持ってもらった手の感触や、筆さばきがどうだったかを感覚で記憶しているという方が正確かもわかりません。
私のたどたどしい筆さばきを、その先生の柔らかいタッチで流れるように描いてもらった感触を覚えているということです。 年を取ると、どんなことを小学生の時に勉強していたか記憶などほとんどないと思うのですが、このような感覚で覚えた経験を忘れることはないように思います。ただ、その習字の先生のことを年をとってから何度か思い出さなければ、きっと、その感覚を覚えていたことすら忘れてしまっていたと思います。
なぜか、あの時の感触やどんな教室だったかは記憶として覚えていて、今までに何度か思い出しているのです。
そう思うと、感覚は記憶するというより、身体に刻まれているということではないかとも思います。痛みだけでなく、こういう気持ちの良い感覚も身体の感覚で覚えている訳です。 膨大な時間の中で、そんな感覚だけが所々記憶されているというのは不思議な感じがしますが、きっと、思い出す機会があったから覚えているだけで、本来は、どんな感覚の記憶も全て身体に刻まれているのだと思います。
つづきます。
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