感じ方に客観性が必要だったとしたら、初心者は治療が全くできないと言うことになります。しかし、経験者でも治せなかった症状を、初心者が治してしまうということも稀にあります。
なぜ、そんなことが起こるのか?
私自身も治療家になって間もない頃、一例だけですが、それを経験しています。もの凄く喜ばれたことも覚えています。だから術者と患者の間で起こる何かというのは、数値で定量化できるものではないと確信しています。
それでも、できるだけ誰がやっても評価にブレがない診断方法を目指して、小さな動きや代償運動のない動きを開発し、それを臨床に取り入れてきました。それはできるだけ検者が介入しない方法でもあります。検者が手を添えたりすると、それだけで、どうしても、術者の意識の差が起こるので、それを限りなくゼロにしたかったからです。しかし、それをゼロにすることは実質的に不可能だと気づきます。
そして、客観性は増しますが、患者さんを置き去りにした方法になってしまう怖れがあることに気づきます。
触診では、この動画でもわかるように同じところを触っているはずなのに同じ結果にはなっていません。 だからプラシーボと言われれば否定はできません。実感してもらう以外に方法はないなぁ~と最近よく思います。だから科学的な評価にはなりません。しかし、どれだけ客観性を重視し、科学的な方法だとしても、客観性だけを重視したら治るのか?
と問いたださなければなりません。真実は真逆なように思います。この患者さんが彼と私との差を感じているのはあきらかすぎる程あきらかです。決して私に気を使っている訳ではありません。私と、この患者さんは同調していますが、初心者の彼は、全く同じところを押さえているはずなのに同調はしていません。 これが非常に重要です。
この差があるのに、例え同じ場所で、同じ角度、同じ深さで鍼刺激を行っても、同じ結果にならないのは事実だとわかります。だからこそ鍼灸をエビデンスにすることは不可能な訳です。というより様々な要因があり過ぎて、経験者と未経験者では比較にならないということです。
例え経験者同士の術者であっても、見ようとしているものが違えば同じ結果にはなりません。それが感覚の世界では普通です。 あきらかに客観性はありません。それを無理やり客観的に見ようとすると客観的に見ることが目的となって、患者さんの身体を調整するということが置き去りになってしまいます。
あなたが見ようとしているものは何なのか?
それを近づけることはできても統一することは不可能です。この事実をあきらかにしないと主観的な妥当性というのはありえません。 また、そんな彼が治療をした時、効果は、ゼロでしょうか?
それもありえません。彼が感じた部分は何らかの変化が起こるのは事実です。だからこそ、感じるとは何かという問題を常に探っている必要がある訳です。だからこそ単純なエビデンスにはなりえないと言い続けている訳です。そして、この問題をうやむやにして東洋医学はありえません。
感じるとはなにか?
それは、永遠のテーマです。
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