時間とは本当に不思議なものです。
早くなったり遅くなったりするのはなぜでしょうか?
科学的な意味合いはあるのかもしれませんし、そんなことは私には分かりませんが、普段の生活の中で気づくことがあります。
アレクサというのを知っていますか?
ネットに繋がって、今日の天気やニュースを知らせてくれたりします。その機能の中で、リマインダーという機能があります。いわばタイムなのですが、何分後にお知らせしてと言うと、音声で知らせてくれます。 Amazonが作ったAIの音声認識システムみたいです。
15分は同じ時間のはずなのに、ある時はものすごく遅く感じたり、ある時はものすごく早く感じたりします。自分の時間と本当の時間というのは解離しているような感じになるのですが、なぜそんなことが起こるのかは私には分かりません。
しかし、集中して、何かをしていると、物凄く短く感じるのは事実です。多分それは誰しも感じることだろうと思います。 同じ時間を過ごしているのに、人それぞれが全く違う時間を過ごしているということになるのは?
それを単なる感覚の違いということで片付けて良いとは思ってません。 それでも、正午には同じ正午がやってきます。一瞬で同じ時間に引き戻される感じがします。
「え~。もうこんな時間?」
って思うときありますよね。
時間も認識した時に時間を感じるのであって、時間に正確な時間は認識した時だけだと思います。
時間って正確なようでとてもあやふやで、基準が明確ではないなと思います。
基準の中で正確だと思えるのは、物質の縦横高さでしょう。時間よりももっと明確ですが、それも微妙に怪しい。 鉄は熱を加えると膨膨しますしね。膨膨しやすい物質とそうでない物質があるのはわかりますが、概ね同じという思いをどこかに置いていないと駄目だなと思ってます。
木造の建築技術は、そういう計算の元に成り立っていると思います。
認識した時だけ時間があるというのならば、時間が存在するということに同意できますが、もし認識しないまま一生を過ごしたら、時間の中で束縛されることはないのではないかと思います。
自由な発想というのは、このような発想です。自由な発想をするためには、基準を捨てるということがとても大事です。そして、その基準というのは、単純に自分が思い込んでいただけであって人がその基準をもっていると考えないことが大事ということです。 この発想ができるかできないかによって自由であるか自由でないかが決まります。
この前の恐怖の話ではないですが、一生懸命思考をして、賢くあろうとすればするほど、基準を明確にするということになります。つまり自由な発想ができなくなってしまうという弊害がおこります。
それが良いとか悪いと言っている訳ではありません。
新しい発想をしたければ、基準を疑えということです。 自由な発想ができないと、わずかなイレギュラーで、相当感情を乱してしまうという現象が起こります。
この現象は、筋力検査を行っていると毎日起こっています。思考と感覚というのはホントにあやふやです。 しかし、この感覚こそが、その人にとっての真実なのです。
特に痛みは、基準を無視して起こることが多いです。医学的には痛みがあるはずがないのに本人はもの凄く痛いと感じている。
そんな時に、痛みが起こる原因はないからと、慰めれば慰める程、余計に痛みが起こっているという現実があります。
たぶん、痛みの本質をわかっていないガチガチの医師なら、嫌気がさして、怒ってきたりするのではないかと思います。それとも、どうでも良いと投げやりになったりもするでしょう。これらの反応は見た目が違うだけで全て同じ感情です。
そこからは何も生まれません。
昨日話しをしたパニックも同じ現象です。どれだけ落ちることはないと頭ではわかっていても、高いところに登ると落ちそうな気持ちになるのです。
それをいくら頭で理解しようと思っても絶対に無理です。
パニックというのは、ワーワー騒いでいることだけじゃなく、自分は情報を得て、賢くなり、パニックの原因を理解していると思っている人がパニックを起こす大きな原因になる可能性があるということです。
信じていたものが、少しでも間違っていたらという不安を、心の中のどこかに抱えながらも信念を語るからです。 こういう時こそ、パニックにならない為にも基準を捨て何があってもおかしくないと思う必要があるでしょう。パニックを起こしている人に真実やその人が語る信念は何の役にもたちません。
落ちつくまで時がすぎるのを待つしかないのだと思います。
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